2015年02月12日

生と死

先月末、日本人ジャーナリストがイスラム系武装組織に殺害される映像が公開され、日本中に衝撃が走りました。
身代金やテロリストの釈放など、武装組織の要求は二転三転。ヨルダンやトルコといった国々をも巻き込んで事態は複雑な展開を見せ、最終的には日本人の人質が殺害されるという許されざる悲劇の結果となりました。


ニュースは日本に衝撃を与えましたが、それよりも私個人にとっては、はるかに大きな出来事が起こりました。


入院中の父が亡くなったのです。



祖父母を亡くした経験はありましたが、実の親を亡くした時の胸を締め付けられる辛さや喪失感は正直いって比べものにならないくらい大きい。


今テレビをつければ殺人事件や国際紛争、テロリズムなど、死に関する話題は溢れています。そうした話題に触れた時、心を痛めたり憤りを覚えることはあっても、所詮は他人事。自分とは違う世界の出来事と心のどこかでは思っていたことにようやく気付きました。


父は、1年ほど前に癌が見つかり、その後手術と放射線治療を耐え抜いて一度退院したのですが、亡くなる数日前に急に容体が悪化し、再入院。そのまま病院のベッドで息を引き取りました。


この世に確かに存在していたものが、火が消えるようになくなってしまう。
父の亡骸は文字通り、父という存在そのものがどこかに消え去ってしまった抜け殻のようでした。
その動かしようのない圧倒的な真実に、私はただただ無力感と寂しさを覚えるばかりでした。


人間が決めたことは変えることはできるが、死の前に人間は圧倒的に無力。

それでも父の死に顔を眺めていると、ほんの少し気持ちが安らいでいく気がしました。
父は病気の時には、全身のだるさで辛い顔をしていましたが、横たわる父の顔はとても安らかで、きれいだったのです。


医学的には人体が死に直面すると大量の鎮静作用、多幸作用のある化学物質が分泌されるそうです。そうした科学的な事実はあるにせよ、私には、父がこの世のあらゆる苦しみから解放され、旅立っていったように思えました。


父が亡くなって2週間ほど経過しますが、ふとした拍子に父のことを思い出します。悲しさ、寂しさは一朝一夕でなくなるものではありませんが、これからの自分の生をしっかりと生きていくことが父の何よりもの供養になるだろうと思えるようになってきました。


人は死の直前に、まばゆい光を見るといいます。
映画や動画で太陽の光りが写り込むショットが多いのは、もしかしたら人間が本能的に持っている、普通の人間の視点では見ることのできない光りに対する強い思いがあるのではないでしょうか。


我々が目で見るものには限りがあります。しかし動画では、時間軸や場所を縦横無尽に移動し、自分の視点をあらゆる場所に変えてこの世の中を見ることができます。それは神や仏の視点であり、私が動画編集をするのも、もしかしたら普通に生きている人間には見えない、神や仏の視点で見える美しいものへの憧憬があるのかもしれません。

最後は父の死と動画をむりやりこじつけた感がありますが、そうした事情でブログやYouTubeでの活動を休止しておりましたが、そろそろ再開しようかと思っております。

posted by DY Duke at 13:12| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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